2011/12/22

被災地へ石のカレンダーを届ける&宮城石巡礼の巻

この度、「2012 Voice of stone calender」を東日本大震災の被災者の方々へ届けるためのプロジェクトに多くの皆様からご賛同をいただき誠にありがとうございました。1214日から17日の4日間、宮城県を中心とした被災地へ石のカレンダーをお届けすることができました。そして、宮城のいくつかの聖石も巡拝させて頂きました。長い報告文になりますが、ご一読下さい。

1214日、京都から夜行バスで仙台に入る。友人の曽我部晃(グッド・トイキャラバン館長)の紹介で、「てんたん人形劇場」の土屋転太さんとお会いし、レンタカーを借りて宮城県南部にある山元町と亘理町に向かう。土屋さんは、阪神淡路大震災の時、被災地へ人形劇のボランティア公演をしたという。その時のご縁で今回、神戸の友人から宮城の被災者の子供たちに手作りの人形やおもちゃが送られてきて、それを被災地の保育園や幼稚園に届けようとされていた。タイミング良く、同行させていただく。被災地にあるほとんどの保育園、幼稚園の前には赤十字から贈られたクリスマスツリーが飾られていた。

クリスマツツリー

亘理町のある幼稚園入口には、靴の底に付いた放射能を除線できるようなものが設置されていた。

簡易除線装置

神戸から届けれれた手作りおもちゃ

おもちゃの説明をする土屋さん

ある幼稚園では、津波が来たとき腰に水が浸かっている状態で、園児達をスクールバスの屋根の上に乗せて避難させていたといいます。園児が、水の中に落ちた時、若い保育士が泳ぎながら命懸けで子供を救ったそうです。ただ、残念ながら11人の園児と1人の保育士の命を失ってしまったそうです。涙ながらに話す園長先生は、亡くなった方々全員の遺影が入った額を見せてくれました。園長先生は、その遺影の額をいつも一緒に持ち歩いているようでした。石のカレンダーをお渡しすると、思い出したように「園児がハートの石を見つけたので、その石をぜひ見てください」と。園児はプランターの後ろに置いてあるハート形の石を手に取り、大切そうに見せてくれた。

ハート形の石

プランターには、小さなひまわりが咲いていた。

プランターに咲くひまわり、ハート形の石

園長先生は「季節外れに種を撒いたにもかかわらず石のパワーで花が咲いたのでしょう」と、仰った。

お昼過ぎ、角田市に住む彫刻家の山中環さんに石のカレンダーをお届けする。その日は、保育園2ヶ所、幼稚園2ヶ所、児童支援センターにカレンダーをお届けることができた。

12月15日

早朝、丸森町にある山田石材計画㈱の山田政博さんを訪ねる。山田さんとは、イワクラ(磐座)学会の集まりで何度かお目にかかっていた。20105月の世界石巡礼終了報告会に来ていただいた際、「現代イワクラ」建設の話をお聞きしていて、どうしても、建設中のイワクラを拝見したいと思っていた。

会社を訪ね、石のカレンダーをお届けし、山田さんに大蔵山を案内して頂く。大蔵山の伊達冠石は、世界的な彫刻家イサムノグチが好んで使ったことで知られている。

大蔵山採石場跡地に立つ伊達冠石のストーンサークルは1989年に作られたという。

 伊達冠石のストーンサークル

サークルの中には、石舞台があり、そこでは様々なイベントやコンサートが行われている。その奥の山堂の中には高さ4mものメンヒルが鎮座していた、どこか教会のような聖なる施設といった雰囲気があった。

ご神体のような4mのメンヒル(石柱)

 山の神の石碑から奥に入ると、採石場に出る。採石場には、卵石のような伊達冠石がごろごろと転がっている。採石場の奥のやや高台に建設中の現代イワクラが見える。

採石場から見える現代イワクラ

山田さんが最近出版された「山にいのちを返す~大蔵山採石場にて」(石文社、2011刊)によると、次のように書かれています。

「現代イワクラ」建設プロジェクトとは、大蔵山採石場の奥まった場所に、高さ5mものふたつの原石を山にお返しするプロジェクトだという。10年以上前、この石を掘り当てた瞬間、現場の作業員が「この石は神様だ」と言ったそうです。山田さんは、象徴的に立てられる巨石のほかに、その周囲の石壁を、これまで工場から不要な石として破棄されていた端材を材料にするといいます。また、石に良い悪いはなく、掘り出されたすべての山の恵みへの感謝のおしるしとしてお返しし、こころに響くひとつの風景となる。それが「現代イワクラ」のコンセプトだといいます。さらに、古代の人びとは石に霊的なもの、神を感じ、それを祀ってきた。それを単に古代の遺物とするのではなく、現代の感覚であらためて石に感じ、「イワクラ」として建設する意味があるといいます。最後に、地球の記憶が詰まっている石と、古代から現代につながっている人のこころとを通わせる装置として、あるいは現代人が置き忘れているプリミピティブなインスピレーションやイマジネーションを呼び覚ます装置、今、大蔵山に作る意味を感じているといいます。

建設中の現代イワクラを拝見すると、そこは、まさに新しい石の聖地が創造されているように思えた。

建設中の現代イワクラ(夫婦岩?)

山田さんによれば、いつごろ完成されるかはまだわからないという。大震災や、原発放射能問題の中、このような「現代イワクラ」の建設は、大きな意味があるように思える。現代イワクラの完成を楽しみにしつつ、大蔵山を後にする。白石へ下る途中、見事な虹が出る。

白石方面に虹が出る

 午後、石巻市北上総合支所の岸浪均さんを訪ねる。岸浪均さんは、釣石神社の宮司でもある。10月に鎌田東二さんと釣石神社をお参りした時、偶然お会いすることができ、今回、カレンダーを被災された子供たちに届けたいことをお伝えしたところ、小学校と中学校をご案内していただくことになっていた。

はじめに橋浦小学校を訪ねる。

この地域では、二つの小学校が津波で被害を受けたため、三つの小学校が一つになって授業を行なっているとのこと。校長先生にお目にかかり、カレンダーをお届けする。校長先生によると、この辺は津波を被ったのに石の祠やお地蔵さんが無事に残っているのが不思議です、と話されていたのが印象的だった。帰りがけ、校庭に一台のトラックが停っているのを見つける。

中を覗くと子供たちが本を読んでいた、どうも図書館のようだ。

尋ねると(社)石巻災害復興支援協議会のボランティアの方が、トラックに書棚と図書を積んで簡易式な移動図書館にして巡回しているとのこと。

津波でも倒れなかった丸山地蔵

次に、北上中学校を訪ねる。

北上中学では大震災直後は、卒業式の前日でその練習をしていたという。ほとんどの学生が体育館の中にいて、そのまま家に帰れず体育館内に避難したという。高台にあったため、津波の被害はなかったものの、交通が遮断されて食料が入るのが遅れ、初めて食べ物が届いた時、生徒たち3人に一つのお結びを分けて食べたとの話を聞きしました。

12月16日

朝、石巻市北上町にある釣石神社に向かった。境内には10月の頃には無かった仮設の社務所ができていた。

また、門松が立ち、新しい茅の輪が作られていた。

昨日、釣石神社の宮司さんが「ようやく電気と水道が復旧し、正月ができそうです」と言っていたことを思い出す。石段を上がり、釣石神社をお参りする。

下に降りながら釣石を見ると、そこには新しい紅白の注連縄が巻かれ、釣石の下に御神酒も供えられていた。

陰石にも注連縄が巻かれて新年を迎える準備が整っている様子。3.11大震災にも落ちなかった釣石が復興されつつあることは、実に喜ばしいことである。

その後、隣町の石巻市雄勝町へ向った。かつて、津波で壊された北上川にかかる鉄橋も仮設の橋が復旧していた。お陰で、早く雄勝町に入ることができた。

雄勝の町は、相変わらず一面廃墟とした化した風景が続いていた。ただ、ところどころ仮設で郵便局や食堂なども目にすることができた。葉山神社・石神社の宮司、千葉秀司さんと再会する。葉山神社は、今回の津波で建物は半壊し、復興するのも大変な状況だ。千葉さんは、仮設の社務所の中で正月の準備をされていた。葉山神社・石神社の氏子の皆さん、雄勝法印神楽保存会の皆さんへのカレンダーをお届けする。

小雪降る中、半年ぶりに石峰山を登拝し、石神社と山頂近くの磐座を参拝する。

 その後、石巻市の住吉公園近くにある巻石を訪ねる。大震災後、巻石がどうなっているか心配していたが、巻石の頭を見て安心する。


この石は、石巻市の地名の由来になったという伝説を持つ岩で、石巻湊から旧北上川を500mくらいさかのぼった川岸近くにある。石の回りで潮が渦を巻いたことから巻石と呼ばれている。まさに、ロックンロールな石でもある。

その日の夜、福島県三春町の里山喫茶燦(きらら)を訪ねる。郡山の旧友Iさんの紹介で、はじめて里山喫茶燦(きらら)を訪ねたのは5年程前になるだろうか。今回、Iさんと久しぶりに再会した。Iさんは、日頃から原発情報に敏感で、今回の福島原発の事故のニュースで、メルトダウンをすることを感じて西へ避難したという。3月11日の夜、ブラジル人のご主人と母親と猫、妹夫婦と車2台でとにかく西へ移動したという。3日後には鳥取県の大山の麓まで避難し、友人の空別荘で2ヶ月暮らし、それから郡山へは戻らず、ブラジルに向かったという。半年後、郡山に戻ってきた頃、たまたま電話をしたら連絡がとれたのだ。Iさんは、1月からブラジル移住を決めている。この国を信用できないという。

里山喫茶燦(きらら)は、福島第一原発から西へ45キロの場所にあり、山が汚れてしまったからには、里山喫茶燦(きらら)は閉店せざる得なくなったとの事。夜、福島から戻られた武藤さんにカレンダーをお渡しする。

12月17日

地元のIさんのご案内で仙台市太白区にある太白山に登る。Iさんと仙台市縄文の森広場で待ち合わせをすると、施設の前に笹舟が展示してあった。


これは、友人の石川仁が関わったカムナ葦船プロジェクトで作られたものだった。Iさんの車で太白山中腹の駐車場まで行き、そこから生出森八幡神社の鳥居を潜った。

太白山は、伊達政宗が命名した名で、その昔「生出森(おいでもり)」と呼ばれていたという。標高321mで見事な円錐形をしているので名取富士、仙台富士とも呼ばれている。この山の中腹にあるのが生出森八幡神社である。この神社には、明治27年から生出森八幡神楽が奉納されている。この神楽は出雲系の榊流神楽で、岩戸神楽に属するものといいます。参道を上がって行くと、大きな石が姿を現した。

神楽殿までくると黄色い虎ロープが巻かれてあった。

今回の大震災で、参道が崩れかなり危険な場所があるため、通行禁止になっているのだ。私とIさんは、自己責任で中に入ることに。崩れかかった石段を注意しながら登ってゆく左手に磐座と思しき巨石が鎮座していた。

本殿は、それほど痛んでなかったが手水舎は傾いていた。

太白山からの参道は崩れていて危険だ。

生出森八幡神社を参拝して太白山山頂へ向かった。太白山それほど高くはない山だが、登山道は岩場でかなり急斜面だった。

鎖やロープの助けを借りて山頂へ。岩場の中に貴船神社が祀られていた。

午後、宮城県宮城郡七ヶ浜町役場子育て支援センターへ向かった。

ここでは、ラビラビが「東北にアイとマニーを届けよう!part2」として被災者へのライブ&感・音・即興Workshopが予定されていた。14日仙台に入った時、ラビラビのピコさんから連絡をもらい、ぜひお会いしたいと思っていた。ラビラビには被災者の方々に石のカレンダーを届けて欲しいと、お願いしていたのだ。13時半頃会場に到着すると、これからラビラビのライブ&ワークショップが始まろうとしていた。

親子連れの方々が集まっていた。

子供たちの前でのワークショップは、ハートフルで魂に響く素敵なものだった。ラビラビの歌と演奏で、大人も子供も歌うことや踊ることで心も体も解放されていった。ラビラビの「東北にアイとマニーを届けよう」の活動は、本当に素晴らしいと思う。

ラビラビに別れを告げ、4日間の東北巡拝の旅は無事終了する。

この4日間でカレンダー143部をお届けすることができました。滋賀に戻り、作家の渡辺一枝さんのご紹介で、福島県南相馬市の仮設住宅の被災者とボランティアの方々に合わせてカレンダー50部お届けし、仙台市と石巻市の被災者の方々にカレンダー20部をお届けしました。(計213部)

皆様、ご協力ありがとうございました。

20111222日 冬至にて 須田郡司 拝

2011/12/05

幼稚園での石の語りべ&乳岩巡拝

 先日、浜松市内のある幼稚園で石の語りべをさせていただく。石の語りべ活動を始めて7年になるが、幼稚園でさせていただくのは初めてのことだった。しかも、100人もの子供たちの前でお話できたことは、とても貴重な経験であった。

10月8日、モンベルサロン名古屋での写真展の初日の石の語りべにきてくださったある幼稚園の先生がそのきっかけを作ってくれた。

 12月1日早朝、彦根から高速道路で浜松へ向かった。最初に園長先生にご挨拶をして、園内を案内していただく。年少組、年中組、年長組のそれぞれの教室を見学させていただく。何人かの女の子たちに「髪の毛が長い」といわれる。プレイルームで、スライド上映のセッティングを終え、いよいよ園児達がやってきた。今回、事前に園児たちに、ひとりひとりが自分の身近にある場所から手のひらに納まる程度の小石を拾ってきて欲しいとお願いしておいた。入場してきた園児たちの手にはビニール袋に入った小石があった。最初、子供たちの持ってきた石を見せてもらう。


何人かには、その石をどこで拾ってきたかを尋ねる。

石は、綺麗な色をしたもの、ハートのような形をしたもの、いろいろな石があった。子供たちは緊張しながらも一生懸命こたえてくれた。

それから、私は石笛を吹き、ムビラを弾いて石の語りべを行なった。子供たちの熱い視線を感じながらお話をさせていただく。

 日本の巨石、信仰されている石神、何かに似ている岩、ピラミッド、ストーンヘンジなど。最後は、イースター島のモアイ像の写真で終了。

 当初、30分くらいといわれていたが、1時間もの長時間、子供たちは座って話を聞いてくれた。最後に子供たちはお礼の歌を唄ってくれた。100人の園児たちの声の力に圧倒される。終わってから、年長さんたちと一緒に記念写真を撮る。それにしても、子供たちの目の輝きは、すごかった。子供たちは、きっと直感で石の魅力を知っている。そう思った。(撮影:すだひとみ)

 

 その先生は、石や巨石が好きで、昼食後、我々を近くにある巨石をご案内してくれた。それは、乳岩(ちいわ)と呼ばれる場所だった。 清流に洗われた白い河床を見ながら乳岩川に沿った乳岩峡沿いを走ると桟敷岩が現れた。


49メートル、長さ100メートルもあり浸食段丘でできている岩で、近くを透き通った小川が流れていた。さらに苔むした巨岩をぬって進むと、空が開け、橋桁の向に乳岩の岩壁が姿を現した。

  この乳岩と乳岩峡は、昭和9年に国の名勝天然記念物に指定され、一帯は流紋岩質凝灰岩が分布している。さらに進むと、乳岩の麓に到着。巨岩の下には子安観音が祀られている。

そこから右回りで巨大洞窟に向かって伸びている鉄の梯を登ってゆく。

 標高675mの乳岩山にはいくつかの洞窟があり、中でも最大のものが乳岩で、凝灰岩中に含まれる石灰分が溶け出して天井部に乳房 状の鍾乳石を作っており、乳岩の由来となっていた。洞窟状の中に入ると、まるで地球の胎内でも探検しているようであった。山頂近くの、通天橋・極楽門といわれる巨大な天然石橋は見事なアーチである。

最後に、半球状の巨大な洞窟に入った。

洞窟内には10体もの石仏が安置され古くからの信仰を感じさせる。この洞窟や乳岩を見ていると、かつては修験者しか近づくことできない場所だと思った。ここを、一般の方々が訪れるようになれたのは、周囲に鉄の梯や遊歩道が作られたからである。その労力を考えると、乳岩山への篤い信仰心の強さに驚かされる。

幼稚園での石の語りべ、そして乳岩巡拝。何とも贅沢な一時であった。今後、もっともっと子供たちの前で石のお話をしたい、そう願いつつ浜松を後にした。