2009/09/25

モロッコ、ケラン・ムグナの巨石群

 9月21日

 ワルザザードからタクシーをチャーターしてケラン・ムグナ村へ向かった。
たまたま見つけたあるブログで、ここに巨石があることを知ったのだ。
 荒涼とした大地に、真直ぐな道路がどこまでも続いていた。ケラン・ムグナまで約100kmの道程をタクシードライバーは丁寧な運転で走り、2時間あまりで到着する。
 村に近付くと、遠くから丘の上に巨石が乗っていることがわかった。何とも存在感がある。

近付くと、山上の巨石へとブルーの階段が付いていた。まるで、巨石がご神体で自然の神殿のように見える。
さっそく岩上に上と、そこには3つの巨石、その周辺にもいくつもの巨石があった。巨石近くには子供や大人が数人日陰になったところで休んでいた。子供たちは人懐っこく、「ボンジュール」と言って握手を求めてきた。

しばらく、巨石の周りを歩きながら撮影をしていると、ある若者がやってきた。彼にこの巨石のことを尋ねると、この石自体は特に信仰されているものではないという。しかし、この場所は村を見渡せる丘にあるため人々から親しまれていて憩いの場所になっているとのこと。また。巨石にはある文字が書かれていて、その意味を聞くと、それは挨拶の言葉だという。

ケラン・ムグナは、バラの村で知られている。毎年、5月にはバラの祭りが行われるという。

巨石は、まるで何かを暗示するかのように配置しているようにも見えた。

その後、ケラン・ムグナからさらに東の村に移動する。走っていると、次第に岩肌の色が赤くなっていった。赤い岩山の麓に赤い泥レンガの集落。そんな光景を見ていると、どこかチベットのラマ教寺院を思いだした。

ある小さな村を訪ねると、川沿いにぽつんと奇岩が立っていた。この名も無い岩も村の中では実に存在感を放っていた。

                モロッコ、マラケシュにて 郡司 拝

モロッコ、泥レンガの要塞都市アイト・ベン・ハドゥ

 午後6時40分、ミナレットのスピーカーから「アッラー、アクバル」の声が何度も何度も鳴り響いた。
その日の日没の合図である。マラケシュの人々は、それから一日の初めての食事がはじまる。

 9月17日、スペイン、バロセロナからモロッコに飛び、カサブランカから列車に乗り5時間あまりでマラケシュの町に到着。旧市街の広場近くで宿を探しマラケシュの町を歩くと、どこか重々しい空気が流れていた。そう、それはラマダン(断食月)の真っ最中だったのだ。人々は、どこか覇気が無く、ただじっと座っている人、空腹感に耐えている人の思いが伝わってくる。
 イスラム教徒にとって一年に一度のラマダンでは、日の出から日没までは食料はもとより水も飲んではならない(一部の例外はあるものの)。これが新月から新月の28日間行われるのだ。かなり厳しい。その空気感がこちらに伝わってくる。日中は、ほとんどの食料品店、レストラン(外国人向けを除く)は休業していた。ラマダン中にイスラム圏に来るのは初めての経験だった。
日没後、人々はいそいそと家路に帰り食事をとる。夜のマラケシュは異常なくらいの活気を帯びていた。
  マラケシュでしばらくレストして、20日にワルザザード近くにあるアイト・ベン・ハドゥへ向かった。
  19日、バスターミナルでワルザザード行きのバスを予約しに行くと、ラマダン明けが近く、バスに空席がなかった。
ラマダンは新月を観察できる20日の夜に終了する予定であった。そこで、ミニバスを予約することにした。 翌日、バスターミナルへ行くと、我々を含め6人のツーリスト、ドライバー、ガイドの8人を乗せたミニバス(三菱パジェロ)で出発する。マラケシュの郊外から急な坂道を上り始める。ヘアピンカーブを何度も曲がりながら上ってゆく。標高2000mもの峠を越えてやや下ったところから、アイト・ベン・ハドゥの看板を左に入ると、オフロードが待っていた。車はゆれに揺れた。さすが日本車と誇りに思いながら、30分ほど走ると泥レンガの集落に到着した。
村の中の小道を歩くと、川の対岸に巨大な要塞都市が見えてきた。これがアイト・ベン・ハドゥかと思いながらその景観に圧倒されていた。
岩山の斜面を利用して作られた茶色の泥レンガ造りの家はすべてつながっている。水の無い川を渡り入り口の門で入場料を払い中に入ると、レンガでできた高い城壁や塔が実に美しい。
迷路のような通路を上へ上へと昇ってゆくと、集落の最上階に到達する。この建物は、篭城に備えた食料庫だった。
上から見下ろすと、川沿いは緑豊でここがオアシスだということが実感できる。
この珍しい景観からアイト・ベン・ハドゥは世界遺産に登録されている。この中には数件の家は今でも生活しているが、ほとんどが観光客向の土産物が並べられていた。
 泥レンガで作られた要塞化された村は、クサルと呼ばれる。隊商交易の中継地として栄えたこの地には、カスバ(個人住宅、城)と呼ばれる邸宅が造られ、中でも有力であったハッドゥ族が築いたのが、アイット・ベン・ハドゥの集落であった。彼らは、盗賊などの掠奪から身を守るため、城砦に匹敵する構造の建築を行った。敵の侵入を防ぐため集落への入口はひとつ、通路は入り組んでいてまるで迷路である。1階は窓がなく換気口だけ、外壁には銃眼が施されている。
映画『アラビアのロレンス』『ナイルの宝石』などのロケ地としても知られている。
 帰りがけ、別な道で岩山を降りるとそこには多くの巨石がごろごろとしていたのが印象的であった。


                    モロッコ、マラケシュにて 郡司 拝

2009/09/20

スペイン、カタルーニャ人の聖なる岩山モンセラート

9月15日

世界石巡礼の途上、バルセロナでアントニオ・ガウディのいくつかの作品群を見る機会を得た。
彼の作品は、まるで植物のような有機的な雰囲気を醸し出している。その極めつけが最後の作品サグラダ・ファミリア(聖家族教会)贖罪聖堂だ。聖堂の中に入ると、まさに建築現場であった。

ガウディの死後、このように建築がつづけられていることは奇跡である。これは、彼の作品が時代を超えて未来の方向性を指し示しているからだろう。
特に印象的だったのが塔の螺旋階段で、まるで貝殻のようであった。 上から覗き、下から見上げた。

その夜、再びサグラダ・ファミリアを訪ねる。近くの小さな公園がありその中に池があり、そこに映る逆さサグラダ・ファミリアを見たかったのだ。池の中を覗くと、まるで地底に伸びる神殿のようなサグラダ・ファミリアがあった。
翌日、ガウディやダリに影響を与えたといわれるモンセラートへ行く。

 バルセロナから地下鉄でエスパーニャへ。エスパーニャからカタルーニャ公営鉄道、モンセラートラック鉄道に乗り換え1時間半ほどでモンセラートの修道院に到着する。電車には座りきれないほどの観光客でにぎわっていた。
バルセロナの北西約60kmにあるモンセラット山の麓には、黒いマリア像で知られるベネディクト修道院がある。
黒いマリア、つまりここはキリスト教以前からの大地母神の信仰があった聖なる場所であった。
修道院の背後は、ごつごつとした岩山で覆われていて実に神々しい。モンセラートとは、のこぎりの意味で、まさにのこぎり山といった感じだ。

修道院を見学してからケーブルカーで山上へ向った。
 山上の駅に着くと、そこからさらに岩山に向って登山道が続いていた。岩に導かれるように上って行くと、そこには奇岩、怪石はもとより、まるで天啓を現わすかのような巨岩群が点在していた。


 カタルーニャ人の聖なる岩山モンセラートは、今でも多くの人々に様々なインスピレーションを与えつづけているのだろう。

                 モロッコ、マラケシュにて 郡司 拝

スペイン、ビトリア・ドルメン巡礼

 9月13日

 スペイン北東部のバスク地方のアラバ県に先史時代のドルメン(巨石墳墓)があることを知り、我々はアラバ県の中心地ビトリアへ向った。 サンティアゴ・デ・コンポステーラから夜行バスに乗り8時間あまりでビトリアに到着する。早朝のビトリアの街を散策しながら観光案内所を訪ねる。ドルメンのことを尋ねると、いきなり大きな地図を取り出してくれた。それはアラバ県の地図でその中にいくつかのドルメンが記されていた。
 我々は、手頃なホテルを探してチェックインし、さっそくビトリア近郊にある二つのドルメンを目指す事にした。
ビトリアバスターミナルを出発したバスは30分ほどでエギラス村へ到着する。そこで偶然一緒に降りた村の青年は、ドルメンの行き方を親切に教えてくれた。この村にはアラバ県を代表するアイスコメンディのドルメンがあった。
バス停から高速道路を潜り、徒歩で15分も歩くドルメンはあった。ドルメンの背後は盛り土になっていてかつては埋まっていたことが想像できた。ドルメンの入口には駐車場があり、そこから数十mほど歩くとドルメンが現れた。
横には説明書きをした看板がある。5つの垂直の石柱は石灰岩からなっていて、テーブル状の石を支えていた。

ドルメンに近付き中へ入ると、二つの石柱に鉄の棒が食い込んでいた。
それはドルメンが崩れないために付けられたようだが、何とも痛々しい。周囲を回って見ると、ドルメンの遥か彼方に山が見えた。ドルメンは、この山を目印に作られているように思えた。

その後、我々はアリサラ村のソルギネチェのドルメンへ向った。
その日は土曜日だったためバスの便が極端に少なかった。次のバスが来るまで数時間もあったため、ヒッチハイクを試みる。しかし、車はほとんど通らずたまに通っても停まってくれなかった。そこでヒッチハイクを諦め徒歩で行くことにする。田園風景を見ながら歩くのも悪くない。お遍路をしている時のことを思い出しながら歩く。
1時間半ほど歩くと道路沿いにソルギネチェのドルメンの看板が見えた。
歩いていると3.5kmの数字が遠く感じた。ようやくソルギネチェの村に入り、村人に行き方を教えてもらう。民家を過ぎさらに牧草地を歩くと遠くにドルメンが見えてきた。
畑の小道を歩くと駐車場があり、その奥の丘にドルメンはあった。 近付いてみると上に乗っているテーブル石が斜めに傾いていた。かっこよいドルメンだ。
周りをゆっくりと眺めながら撮影をする。
このソルギネチェのドルメンは、別名「魔女の家」と呼ばれていた。どのような伝承があるか分からないが、魔女とドルメンとのつながりは興味深いものがある。
 紀元前2500年頃に造られたといわれる二つのドルメンは、少し距離は離れているが、まるでセットのように配置されているように見えた。これらのドルメンの近くには、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路がある。
我々は、結局4時間近くドルメンからドルメンを歩いたことになる。この10kmあまりの行程は、実に心地よいドルメン巡礼だった。

                        モロッコ、マラケシュにて 郡司 拝

2009/09/13

スペイン、窓を持つケルトのメンヒル

 9月11日

 サンティアゴ・デ・コンポステーラからバスで約一時間、港湾都市ア・コルーニャに到着した。
そこからバスで乗り換え、15分ほどでエルクレスの塔にやってきた。
 コルーニャ岬に建つ古代ローマ時代の灯台は、エルクレス(ヘラクレス)の塔と呼ばれている。ヘラクレスが倒した伝説の怪物グリュオンの死体の上に建設されたとの伝説もある。ローマ人は、60mの崖の上に30mを超える灯台を建設した(18世紀に増築された上部の照明施設部分を含む現在の高さは約55メートル)。紀元100年には既に建てられていたとされ、ローマ時代の灯台としては唯一の現役だという。この塔は、2009年にユネスコの世界文化遺産として登録された。
 しかし、私がここに来た目的はこの塔ではなく、別にあった。この岬には彫刻公園がありそこに現代作家によるユニークなメンヒル(立石)があることを知ったからだ。
 エルクレスの塔を左手に見て、海岸沿いを歩くと小高い丘が現れた。そこには、いくつもの現代彫刻が展示されていた。さらに少し下ると、もう一つの丘が見えてきた。小さな湾には激しく波が打ち寄せている。
その丘には、いくつものメンヒルが頭を出していた。
遠くから見ると、まさに古代遺跡といった感じがする。
近づくと、11個のメンヒルが立っていて、それぞれに穴が空けられ窓のように見える。窓を覗くと海が見えた。
作家は、どのような思いでこの“窓”をもったモダンな立石をつくったのだろう。恐らく、このガリシア人の作家は、自分たちのルーツがケルトであることをこのモダンなメンヒルで主張したかったのではないだろうか。
作品名「メンヒルの家族」。

メンヒルの陸側を望めば現代建築群が並んでいる。何とも不思議な光景だ。

                 スペイン、ビトリアにて 郡司 拝