2009/07/30

フランス、岩と聖水を求めてやってくる奇跡の町ルールド

 7月28日

 ル・ピュイから列車に乗り10時間あまりでようやくルールドに到着した。
ルールド駅を降りると、国籍豊かな人々がホームや待合室で見ることができる。やはり、ここは奇跡を求めて世界中の人々が訪れている場所なのか。
ホテルを探しに町に行くと、あちらこちらにホテルが立ち並び、簡単にリーズナブルな宿が見つかった。チェックインを済ませて部屋に荷物を運んでいるとき、車椅子に乗った人が介護をされながら別の部屋に入っているのが見えた。
 さっそくルールドの町に出かける事にした。たくさんの土産物、巡礼グッズのようなものが置いてある店を通り過ぎ、橋を渡るとロザリオ聖堂が見えてきた。聖堂に向かい合うように造られたマリア像には、たくさんの花束が添えられている。

ロザリオ聖堂の下にあるマサピエールの洞窟に行くと、小さな礼拝堂でミサが行われていた。
 人々は賛美歌を歌い、祈っていた。ミサが終わると、洞窟への行列ができた。我々も列に加わり洞窟に近付くと、人々は手を上げて岩肌を触っていた。中には、ハンカチで岩を摩る人もいる。花束が置かれた処を見ると、透明なガラス越に湧き水が流れていた。これが、ルールドの泉かと思った。
マリア像が置かれた洞窟付近は、特別な場所らしく熱心に手で触ったり、口付けをする人もいた。驚いた事に、涙を流す何人もの人々も見かけた。

 南フランス、ピレネー山脈の山麓の町ルールドは、1858年に14歳の羊飼いの少女が出会った出来事をきっかけにキリスト教の聖地として崇められるようになった。少女の名はベルナデッド。

 彼女が洞窟近くの川岸で薪拾いをしているとき、突然、白いドレスに青いベルト、右腕にロザリオ(数珠)をかけ、足元には黄色のバラの花をたたえた聖母マリアが出現した。1858年2月11日から4月7日まで、合計18回にわたって出現したという。「私は、無原罪の御宿りです。」と名乗り、「罪人のために祈りなさい。」と言ったという。ある日、「泉へ行き、水を飲み、身体を清めなさい」とベルナデッドに告げた。彼女は、指示された場所の地面を掘ると、そこから泉が湧いてきた。この水を飲んだり、浴びたりした人々の病が次々と治ったという。これが「ルールドの奇跡」だ。 洞窟の東側には、聖水を汲むための蛇口がいくつも設置され、人々は容器に水を入れたり、水を飲んだりしていた。
帰りがけ、ミサに参加する車椅子の集団に出会った。ルールドには、ハンディーキャップを持った方々をサポートする体制が整っているようだ。

 ルールドを訪れる人々は、どこか喜びに満ち溢れている。この場所には、人々を素直(す)にさせる力があるように見える。
それにしても、これだけ世界中の人々が洞窟の岩を触りに、そして聖水をいただきに訪れる聖地は世界中探しても無いのではなかろうか。

 ルールドは、キリスト教の巡礼地、聖地として年間500万人以上もの巡礼者、観光客が世界中から訪れているという。 もはや、この場所は宗教を超えた自然信仰の聖地だと思う。

           フランス、カルナックにて 郡司 拝

フランス、マリア信仰と岩の聖地ル・ピュイ・アン・ヴレー

 7月26日
 265段の石段を登ると、岩山の上に小さな礼拝堂が建っていた。眼下に広がるオレンジ色の町並みが実に美しい。ようやく念願のル・ピュイに来たんだなぁと実感しながら、しばし岩上に立ち尽くしていた・・・。

数年前、植島啓司著「聖地の想像力」(集英社新書)を読んだ時、巻頭にあったカラー写真が目に焼きついた。鋭角にそびえ立つ岩山に建つ教会。
それが、ル・ピュイのサン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂であった。この写真を見てから、私はどうしてもル・ピュイを訪ねたいと思っていた。今回の世界石巡礼で、ようやく来る事ができたのだ。

 25日、ジェノバからニース、マルセイユ、リヨンをTGVで乗り継ぎ、ル・ピュイに到着したのは深夜23時を回っていた。ラッキーにも巡礼宿に宿泊することができた。
 翌朝、さっそく、サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂のあるディク岩に向かった。
ロマネスク様式の礼拝堂の入口で、私は靴を脱ぎ裸足になった。中に入るとステンドグラスからの光に照らされた石柱やフレスコ画が静かに浮かび上がっていた。再生機から賛美歌が流れ、何人かの人は黙想をしている。居心地のよい空間である。
 かつて、このディク岩はキリスト教以前からの聖なる場所で、岩の上に横になると身体を癒すことができたという。私は、頃合を見計らってしばし横になってみた。まるで磁石のように身体が吸い付くように感じた。

 次に訪れたのが、ノートルダム大聖堂の黒い聖母マリア像である。黒い聖母マリア像がある場所は、かつてのドルイド教の価値観、つまり聖なる石、岩、水、木、山への信仰が根強く残っていた場所と考えられている。このル・ピュイも元々はドルイド教の聖地であり、聖母マリアが黒く塗られたのは、元来、その土地で信仰されていたケルトの大地母神である土着信仰と結びついた可能性がある。

ノートルダム大聖堂の背後にあるコルネイユ岩の上には、鉄で出来た聖母子像がある。
これは、19世紀中ごろ、クルミア戦争で勝利したことに感謝して大砲213門を溶解して造ったものだ。聖母子像の中は、螺旋階段で上がることができ、いくつかの窓から覗く事ができ、胎内巡りのようだ。

 このル・ピュイは10世紀中ごろに時の司祭がフランスで初めてスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼をしてから巡礼路の起点の一つになったという。また、その頃にはマリア信仰の聖地としてフランス全土に知れ渡っていた。

穏やかな田舎街ル・ピュイは、今でも多くの巡礼者や観光客を魅了する岩の聖地である。


             フランス、カルナックにて 郡司 拝

2009/07/25

イタリア、パレルモの洞穴教会

7月22日
バスは急カーブの坂道を上りはじめると、シチリア州の州都パレルモの街が見えてきた。
ここには、パレルモの守護聖人ロザリアが遁世した洞穴教会がある。
バスが教会の前に着くと、そこには多くのお土産屋からカフェがあり、かなりの観光地であることに驚く。
そそりたつ岩場にクリーム色の建物が食い込んでいる。中に入り石のタイルを歩くと奥に洞穴の入口があった。

修復工事をしているようだったが、中に入る事ができた。

ここが、サント・ロザリア聖堂である。
洞穴の奥に礼拝堂があり、ごつごつとした岩肌が厳かな雰囲気を漂わせていた。
洞穴の天井には、あちこちにブリキの板が見える。
それは、天井から滴り落ちる水を集めるためのもので、水は石の桶に貯まっていた。石桶をじっと見ていると、時折、ポタッと水が落ちる。聖なる水だ。

しばらくして、ミサが行われた。30人もの人々が神父の話に耳を傾けていた。

聖ロザリアとは、伝説によれば1130年にカール大帝の末裔のノルマン貴族の家系に生まれ、信仰も篤くベッレグリーノ山の洞窟で隠遁して暮らし、1186年年に亡くなったとされる。
1624年、パレルモにペストが流行した時、病気の女性の前にロザリアが出現し、猟師の前に出現した時、彼女は自分の遺骨の在り処を示し、行列を作って町に進み彼女の遺骨をパレルモまで運ぶように命じたという。
それによって猛威を振るっていたペストがぴたりと治まったという。その翌年、洞穴の教会が創建された。
パレルモでは7月15日、フェスティーノと呼ばれる聖ロザリアを祝福するお祭りがある。遺骨を乗せた山車でパレルモを行進するのだ。
洞穴の入口にドクロを持った女性像がある。これは、聖ロザリアを象徴しているように見えた。
奇跡から4世紀が過ぎるがこの聖ロザリアへの信仰は一向に衰えず、パレルモにおいて、最も聖なる洞窟教会として今でも多くの人々が訪れているという。

最終のバスは30分近く遅れてやってきた。聖堂から少し上がったバスの折り返し地点で2分間停まり、パレルモの街を眺める事ができた。


            イタリア、ローマにて 郡司 拝

2009/07/22

イタリア、アチカステッロ(アチ城)とキュクロプスの島(三連立神)

 7月21日
カターニアから北上したバスがアチトレッツァの村に入ると、海の中に三つの岩が見えた。
その光景は、まるで奄美の三連立神を彷彿させた。

 マルタを早朝5時に出航したフェリーが8時過ぎにカタ-ニアに到着すると、どこか時差ぼけのような感じになっていた。以前、カターニアの観光案内所でもらったパンフレットの中に、エトナ山の溶岩でできた火山岩のアチカステッロ(城)の写真が載っていて、そこに行くことにした。

カタ-ニアのバスターミナルから534番のバスに40分ほど走ると、アチトレッツァの村に到着。海辺のあちこちで水着を着た人々が寛いでいる。ここは、シチリアの有名な観光リゾート地の一つだ。
 海にはいくつもの岩礁があり、正面の海に奇岩が聳えていた。奄美大島の古見の三連立神のように見えた岩は、「キュクロプス達の島」と呼ばれていた。
 この名称は、オデッセウスの伝説に由来している。それは、オデッセウスがエトナのふもとに住んでいたキュクロプス(一つ目の巨人)の目を潰して、船で逃亡する際に、巨人が投げつけた岩がこれらの島となったという。

アチトレッツァから海辺を1kmほど南に歩くと、海に突き出た玄武岩の絶壁に城が建っている。その上には、火山岩でできた城がそびえている。これが、アチカステッロ(アチ城)だ。町の名もそこからきていた。

 この岩は、約55万年前にエトナ火山が海底噴火の時にできたもので、アチカステッロの絶壁に見られる「枕」型の火山岩は直径約1mもあり、隙間に粘度質の存在があるのが特徴だという。
ギリシャ神話によると、妖精ガラテアに愛された羊飼いアキス(イタリア語ではアチ)が、嫉妬深い一つ目の巨人ポリフェモスの怒りを逃れてこの城で死んだといわれている。また、ゼウスは、恋人の死を嘆く妖精ガラテアを、城を囲んで流れる水の流れに変えたという。
 かつて、この城はノルマン時代の1076年の創建で、当時は、カターニア司教に属していた。その後、14世紀にアラゴン家、15世紀にアラゴーネ家の所有となり武装要塞として利用された。
城に上ると、一部は鉱物学と古生物学のサンプルを集めた市立博物館として使われていていた。
    博物館に展示された模型
自然と歴史が解け合った光景、それがアチカステッロとキュクロプス達の島の岩の魅力であった。
  
              イタリア、カターニアにて 郡司 拝

マルタ、巨石神殿にテントは必要?

  7月20日
マルタの最終日は、南部にある二つの巨石神殿と青の洞門と呼ばれる景勝地に向った。

ヴァレッタからバスで約30分ほど走ると青の洞門の入口へ。そこから道路を10分ほど下ると、青の洞門をボートで観光できる小さな港に着く。小型ボートで20分の青の洞門やその他の洞窟など巡る。
洞門の近くに縦に走るホト的洞穴があった。
岩の下は、不思議なほど美しいコバルトブルー。

あまりにも海が美しかったので、吸い込まれるようにしばし泳いでしまう。

そこから徒歩で30分歩いた処に、二つの神殿跡があった。
入場料を払い神殿の中に入ると、サーカス小屋のような大きな白いテントがあり、その中にハジャー・イム神殿の巨石群があった。

ここもまた、エチオピアのラリベラ教会と同じではないか・・・。
何のためのテントだろう。遺跡を守るため?それとも遺跡見学者への日陰の提供か?
巨石群は広範囲にあるため、テントで覆いきれない場所にも石はあった。
やはり、テントなど無い方がいいに決まっている、と心でつぶやきながら500mほど離れている、イナムドラ神殿に行く。真直ぐな下り道から神殿が見え、またもや巨大テントの下に巨石神殿が広がっていた。

こちらの巨石神殿は、春分・秋分の日の太陽が神殿の真ん中から昇るように設計されていた。5000年以上も前から、巨石群は暦や天体の観測として利用されていたのだ。
しかし、この巨大なテントの存在は、神秘なる自然現象すら観察できなくしている・・・。
                イタリア、シシリー島にて 郡司 拝